政党は国民の信を得ているのか(1)。
安倍晋三元内閣総理大臣が凶弾に倒れられた事件は、当時は参議院選挙の最中であっただけでなく日本政治史上最大級の衝撃を与えた事件であったと言ってよいでしょう。この事件が「民主主義の危機」を齎しかねた事件であったことは間違いありません。政治的言論の自由をテロによって否定することは自由と民主主義の根本を破壊しているわけですから、到底許されることができない事件だったと私は思います。後に事件現場を訪れ、「安倍総理、日本の民主主義は無事に護られました・・・」とあらためてご冥福をお祈りしました。(個人的事情ですが、亡くなった父が安部総理にそっくりで、中国に講演に行った時も中国の大学生たちから「安部首相に似ておられますが、安部首相の政治についてどう思いますか?」とよく聞かれていたそうです。父は一切、政治の話には対応しなかったそうです(苦笑)。父が亡くなった後、安部総理の御姿をみて父を思い浮かべていましたし、安部総理が亡くなった時は父をふたたび亡くしてしまったような気持ちになり、とてもふさぎ込んでしまいました)
私自身、ある勉強会の幹事長として、安倍元総理を講師に「戦後レジームからの脱却 自主憲法制定の必要性」と題した御講演をお願いしたことがあります。若い世代が200名ほど集まり、安倍元総理から憲法改正の要点等について御講演を頂戴しました。安部総理は、フロアから「憲法破棄を断行して、新憲法を制定すべきでは?」と質問があがった時にそれを明確に否定されました。「現在の憲法は、御名御璽を頂いているもの。破棄などできない。改正作業を通して、新憲法・自主憲法の制定を目指す」と仰いました。
私はその発言に、保守政治家としての本気を感じました。決して、目の前の支持者に都合のよい・聞き心地のよい発言を行うのではなく、何が日本の将来にとって・歴史にとって重要なのかを信念をもって次の世代に伝えられようとしたのではないかと思います。そのように、ご自身の信念全部を賭して「憲法」にあたられていた安部総理に接することができたことは、とても得難い経験だっと思います。
安部総理の悲劇に直面して民主主義の価値の重さにあらためて思い至ることは本来はあってはならないことでしたが、残念ながら私たちの文明はこの種の歴史を繰り返していることも確かです。暗殺によって歴史の行方が変わったことは数えあげればきりがありません。だからこそ、未来を設計するために過去の歴史を学ぶことの大切さを私たちは忘れてはならないと思います。
政権選択を迫る衆議院選挙が行われようとしている2024年のこの秋だからこそ、安部総理が大事になされてこられた「国民による信頼」について考えてみるために、今日のブログでは「1940年8月15日の民主主義」というテーマに取り組んでみたいと思います。
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「民主主義」というテーマを検討しようとするならば、我が国の歴史から “ 民意を反映し腐敗しにくい権力装置である議会を構成する ”「政党」が消失した瞬間に着目すべきでしょう。近衛文麿による政治改革がそれを示していることは誰もが御存知のはずです。明治憲法以来の権力構造を根本的に改造しようとした近衛文麿の政治運動をとりあげてみたいと思います。とくに、(1)近衛政権を誕生させようと政権構想を研究した昭和研究会による改革と、(2)近衛文麿政権と政治的に対立した立憲民政党による主張を検証してみたいと思います。
既存政党に対抗して新党運動や新体制運動を展開した近衛がその第一次政権で整えた国家総動員法による社会統制の仕組みを、後に政治体制面において支えることを期待された組織が大政翼賛会でした。近衛の退陣後も、日本の敗戦直前の1945年6月13日まで存在した組織です。皆さんも御存知のように、大政翼賛会の結成により多くの政党が解党を余儀なくされたことは、日本で一時期ナチスのような一国一党を以て独裁を構造化しようとしていた時期があることを物語っています。
しかし、大政翼賛会が独裁権力を確立したことなどは一度もなかったと私は断言してよいのだと思います。その結成の当初から、大政翼賛会の存在は天皇親裁の帝国憲法に違反する存在であると多くの批判が行われていたからです。また、軍人内閣であった東条英機内閣の時期でさえ大政翼賛会は、帝国議会で批判を浴びています。例えば、1943年2月23日に開かれた貴族院の予算委員会では「大政翼賛会ノ如キ存在ヲ必ズシモ必要トシナイ」「実践機関デアル所ノ大政翼賛会ノ現在ノヤリ方ニ付テ、私ハ疑問ヲ持ッテ居リマス」と副総裁であった安藤紀三郎が様々な議員から批判を浴びています。このような批判に対して、安藤は「大政翼賛会其ノモノガ、自己独自ノ政策ヲ樹テ、ソレヲ実行スルコトヲ企画シタリスベキデナイコトハ、是ハ申ス迄モナイコトデアリマスシ、翼賛会ト致シマシテモ、左様ナコトハ毛頭致シテ居リマセヌ」とさえ弁明しています。
このような大政翼賛会への批判は、議会だけではありませんでした。例えば、大政翼賛会の結成直後には国粋主義的な活動家として名をはせていた蓑田胸喜がその著書『学術維新』(原理日本社,1941年)において「臣道實踐を指導原理として掲げた大政翼賛会すらも『共産主義の亡霊』を跳梁せしめ『幕府的存在』の危懼の念を起さしめて朝野国民輿論の批判対象となり」(同書,108頁)と指摘しています。この発言は、蓑田にとってみれば近衛が掲げた「東亜新秩序」という主張も日本の主権を放棄する外交政策であったことを示しています。また、大政翼賛会の結成当初でさえ、議会に提出された予算案3700万円の申請に対して、予算折衝の結果として認められることとなった予算は800万円程度まで減額されていました。この組織の独裁性はそもそも否定されていたのです。つまり、官制権力であった大政翼賛会が政治的な独裁権を確立することはその発足の当初から不可能なことであったと観取できるのです。
近衛政権の政治思想の背骨は、哲学者・西田幾多郎が中心となった昭和研究会であったことはよく知られています。この昭和研究会は大政翼賛会の結成に伴い発展的に解散しました。つまり、近衛を指導者に仰ぐ昭和研究会は大政翼賛会を生み出した発生源の一つであったと指摘できるでしょう。その事実を重視すれば、大政翼賛会が本来目指そうとした社会改革の全容は昭和研究会に焦点をあてなければ理解することができないのだと考えます。ですから、次に、なぜ昭和研究会が近衛の政策ブレーン集団として登場したのか、その政治的背景について考察したいと思います。
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昭和研究会は西田幾多郎のほかに、三木清を中心に蝋山政道、佐々弘雄、笠信太郎、平貞蔵、尾崎秀実、矢部貞治らによって構成された知識人集団でした。また、マルクス主義的思想に傾倒していた三木などが思想的には転向して、近衛政権の政策体系を形成した点にその特徴があります。その昭和研究会は『新日本の思想原理・協同主義の哲学的基礎・協同主義の経済倫理』(生活社,1941年)の中で、その活動の立ち位置を「新秩序建設の根拠たり得べき全く新しい哲学、世界観の確立こそ、我々日本人の責務である。それはまさに協同主義の原理に立つものでなければならぬ」(同書,46頁)と意義づけています。
この「協同主義」という概念に先ほどあげた蓑田が反応しています。日本は江戸時代の鎖国期であってすら国際社会における交流によって日本文化を形成し、また発展をさせてきたのであって、国際交流における日本文化の発展という観点はすでに当然のこととして問題視されるはずがないと蓑田は考えていたからです。「日本文化こそ原理的内容に於いて世界文化である」(蓑田 前掲書,108頁)と指摘した蓑田は、国際性を強調する昭和研究会の姿勢を批判しました。
ですが、昭和研究会は「文化の地域的な拡大は同時にその質的な変化を結果するものである。逆に云へば、従来地理上並びに歴史上諸種の事情に基づいて比較的閉鎖的であつた日本文化はこの際質的な発展を遂げることによつて初めて真に大陸への伸張を遂げ得るのである」(昭和研究会編 前掲書,2頁)と述べており、蓑田がとらえたように既に長い国際交流の歴史の中で日本文化は独自の形を作り上げていると見做していなかったのです。同会は、大陸との文化融合を目指すことで日本社会の新たな発展を目指すべきだと提唱したのです。しかし、蓑田からすれば、この考え方は日本の国体を侵す政治思想であったのです。蓑田は近衛政権の脊髄ともいうべき昭和研究会をマルクス主義者の集団として断じて、政治的批判を繰り返しました。
蓑田は昭和研究会が構想した社会改革の諸案を「言語魔術の思想意志」(蓑田 前掲書,331頁)だと批判しました。蓑田にすれば、昭和研究会や近衛政権が目指す日本社会の改革は、昭和研究会が発行した『政治機構改新大綱』にみるようにナチスを模倣したものに過ぎず、日本の國體とはまったくあわない官僚主義を肥大化させるばかりの思想であると受け取っていたのです。
昭和研究会は、近衛の友人でもある後藤隆之介が世界中で続く革命や政治改革の経過を国外の生活で観察していた経験から、国民からの期待が広がりつつあった近衛を政権首座に押し上げるために政策集団を創ろうと発案したことから誕生しました。既にその概要は述べましたが、発足時のメンバーは後藤のほかに有馬頼寧、河合栄次郎、佐藤寛次、那須皓、前田多門、蝋山政道、井川忠雄、酒井三郎、新木栄吉、河上丈太郎、松岡駒吉、関口泰、田沢義鋪、田辺加多丸、東畑精一、田島道治でした。同会は蝋山政道がまとめた『昭和国策要綱案』をもとに、日本社会を刷新するために考えられうるテーマごとにそれぞれ研究を深めていったのです。そのような経緯からもわかるように、昭和研究会の研究活動は後年の近衛内閣の政策体系そのものの準備でもありました。既存の社会制度や政策では国際社会の変化に対応することができないという危機感が強調され、「朝野一体の総動員」を実現することが昭和研究会の設立趣旨であるとうたわれていました。その設立趣旨は、当時代の政治改革運動の気風をそのまま伝えています。政界、官界、経済界、ジャーナリズム界の大物から若手まで幅広く参加した同会は、近衛の政治的権力が拡勢していくのに従い、活動をより活性化させていきました。昭和研究会に参加していた酒井は、この研究会の風景を「ほとんど報酬も手当もなかったのに、なぜあんなに真剣に熱気をもって毎晩人が集まってきたのだろうか。今考えてみると、まったく本当と思えない不思議さである。しかし、同じ省でも、また企画院をとってみても、部局が違えば他の部局の資料を見ることはなかなかむずかしく、いわんや他の省の資料を見ることは、ほとんど不可能というのが当時の状況であった。また、各自が自分の意見を発表して、それが国政に生かされるということは、大変困難な時代であった。(中略)研究成果や意見が、近衛を通じて実現できるかもしれない、いや実現させてみせるという期待と意欲が、各自の心中にぼつぼつとしてあった」(酒井三郎『昭和研究会-ある知識人集団の軌跡』ティービーエス・ブリタニカ,1979年,56-57頁)と述懐しています。この酒井の発言で重要な点は、二点あります。まず、政策情報が政府内で共有されていなかったことの指摘です。この指摘に、行政機構やその体制の刷新を政策的に近衛が掲げる政治的背景を見出すことができます。次に、各研究者の主体的な社会改革の意識が活用されたことです。昭和研究会を構成した研究者の多くが戦後の民主化改革においても活躍したように、同会による政策の構想力は高い現代性を有していたと評価することもできるでしょう。
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近衛政権による総動員運動という戦時体制の構築は、ファシズム的要素を多分に含むものとして巷間批判されています。大政翼賛会や政党解党という政治的事象を目の当たりにすればそのような評価が成立するのも理解できます。しかし、昭和研究会による種々の改革構想や新体制運動そのものはそれまでの社会構造の刷新を積極的に求めたものに過ぎず、また政治権力の獲得へと己が権能を拡勢させる軍部に対してそれを抑え込むための挑戦でもあったという点はもっと重要視されてよいでしょう。この新体制運動は近衛ありきでの政治改革運動ではなく、近衛も大勢の一部にしか過ぎないとの意識をもって意欲的に運動に加わることが運動構想者たちに求められていたことを見逃すことはできません。
近衛内閣で書記官長や司法大臣を務めた風見章は新体制運動において周囲の人間が近衛に依存しすぎる状況に苦言を呈しながら、近衛自身にも「自から進んでその運動に参加し、乞はるれば総裁たるの実あるべし。つまり新政治体制建設の運動展開の結果として近衛公の参加はあり得るにしても、その運動を展開せしむる動機として近衛公の出馬云々を問題とするは政治的にナンセンスなり」(北河賢三・望月雅士・鬼嶋淳編『風見章日記・関係資料 1936-1947』みすず書房,2008年,153頁)というように要望しています。酒井もまた、後藤隆之介たちがなぜ近衛を擁したのかという点に関して、「軍を抑えて事変を解決するには、新党あるいは新政治体制をつくらねばならぬとはなしあっていたが、(中略)近衛は、国民の力をもって軍の横暴を抑え、事変を早期解決するために、国民運動によって国民組織をつくることを決意したのだ」(酒井 前掲書,209-210頁)と述懐しています。近衛が自らの政権基盤を軍部外に求めていたことがわかります。その観点からすれば、近衛が目指した戦時体制の構築はそこに終局的な目的があったのではなく、軍部に対する政争の一場面であったとも言えるのではないでしょうか。しかし、戦局が拡大していくことを止められなかった結果が、結局は近衛政権の政治改革の失敗へと帰着していったと評価することができるでしょう。
つまり、新体制運動が目的とするところを実現できることが昭和研究会にとっては重要であり、近衛という政治的存在はあくまでも「手段」として用いられていたに過ぎないのではないでしょうか。近衛を指導者として仰ぐ新党結成の方針(「新党結成方略」)で「飽くまで近衛私党たるの批判等を避くるため、人的構成に於ては十分に注意するを要す」(北河・望月・鬼嶋編 前掲書,164頁)と警戒される一方で、酒井はこの新体制運動を「編成替え」(酒井 前掲書,211頁)と表現していました。そして、これを補完するものが大政翼賛会結成の初期構想であったはずです。しかし、予想以上に国民運動として期待される近衛の新体制運動は、親軍勢力を確立しようとした陸軍を利したことで意図せずに米内光政内閣を倒してしまいました。この政治的計算のミスがもたらした近衛の再組閣は、近衛を中心とした政治運動を結局は官制運動へと変質化させてしまうことになったのです。
やがて、昭和研究会に結成当初から所属していたメンバーは共産主義者やその支持者であると官憲からみなされ、その活動も制限が加えられていきました。三木清は最後まで知識人による政策集団としての昭和研究会の存続を主張しましたが、昭和研究会の歴史的使命は近衛政権の変質化によって終焉し、解散させられることとなります。その後、共産主義者と目された三木は、収監されていた多摩刑務所内で1945年9月16日に獄死しています。
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大政翼賛会が目指した政治改革は国家全体の政治体制の刷新を目指したものでしたが、その運用は内務省に依存するものでした。しかし、この実態こそが大政翼賛会への批判を招来させる理由ともなったのです。例えばこの時期、文部省が大政翼賛会による国民統制の動きを批判しています。つまり、内務省批判を文部省が展開していたのです。大政翼賛会が結成された時期、文部省は児童生徒の訓育強化を目的に学内修練体を組織しようとしていました。同時期、大政翼賛会が、文部省とは別に「学校翼賛団」という組織をつくろうとしていたのです。この動きに対して文部省は、「翼賛会は出しゃばりで、物の考へ方が軽率すぎる。(中略)その内容においても教育組織(学校系統)の実情や現に各学校で行われてゐる訓育強化の対策をどの程度に知ってゐて立案したのかと危ぶまれる点があり、一方単なる試案を“これこそ我方の提唱”と振り回す態度に至っては全国の学生を迷わす」(「学生を迷はす 文部省 学校翼賛団に憤慨」『東京朝日新聞』1940年12月28日)と痛烈に批判しています。この頃の文部省の事務次官は菊池豊三郎でしたが、菊池は1940年7月29日から1944年7月28日までその職にありました。この点は大変重要なポイントで、菊池の登板は歴代の文部省事務次官の人事が内務省系統から文部省系統に戻ったことを意味しています。それも、菊池は長くその座にありました。内務省に支配された文部省の歴史を語る上で、この大政翼賛会と文部省による政治闘争の一幕は重要な政治的意味を有していると私は考えます。
東条英機の右腕であった安藤紀三郎(国務大臣)は第81回帝国議会貴族院会議において、大政翼賛会の政治的位置を「事実大政翼賛会ハ内閣総理大臣ノ監督ニ属シテ居リマスルシ、又各省大臣ハ大政翼賛会ヲ通ジマシテ各ヽ其ノ主管ノ行政ニ関係ノアル国民運動ニ付キマシテハ、是亦大政翼賛会ヲ通ジテ指導ヲ加ヘテ居ルノデゴザイマス、決シテ大政翼賛会ト云フ民間ノ団体ガ、自己独自ノ考ト意見ヲ以テ国民ニ運動ヲ希望シ、要請シテ居ル訳デハゴザイマセヌ」と答弁しています。これは、大政翼賛会が独裁権をふるっているとする独り歩きするイメージに対して、弁明すると同時にあくまでも内閣総理大臣の権能を強化しているのだと説明しています。内務省や大政翼賛会に対する各省庁の抵抗に苦慮していたからです。各省は大政翼賛会による中央集権化の試みを牽制し、所管権限を守ることに努めていたのです。
以上のように、大政翼賛会政治に対する混乱は省庁間の対立をもってそれを明らかにすることができました。しかし、内閣総理大臣の政治権力に対抗できる政党制は既にその存立を近衛によって葬られていました。最後まで近衛の政治改革に抵抗したのは二大政党の一つであった立憲民政党でしたが、最後には解党を選択して近衛による政治改革に合流することとなります。
あらためて確認することではないかもしれませんが、第一次近衛政権の登場は広田弘毅・林銑十郎内閣の総辞職を待たねばなりません。広田内閣の登場についてその政治背景に着目すれば、日本社会全体が軍部主導の体制下に移行していく時期と重なっています。その組閣のきっかけは、岡田啓介内閣総理大臣が襲撃され、高橋是清大蔵大臣は殺害された2・26事件にありました。この事件は、陸軍内の主導権を皇道派から統制派へと移しますが、軍部が政治に干渉しようとする動きを更に強めるきっかけともなりました。岡田内閣の外務大臣であった広田弘毅に組閣の大命が下りますが、統制派の指導者であった寺内寿一が陸軍省軍務課の武藤章を帯同して組閣会議に参加したように、軍部の影響力は低下していませんでした。一方で、斎藤隆夫が帝国議会で軍部は明治以来の立憲主義を破壊していると批判したように、世論の厳しい軍部批判の風潮も高まり続けていました。そのような国内世論を考慮して寺内は軍の粛軍を受け入れますが、しかし新内閣に対しては組閣に協力する代わりに陸軍の要求をことこどく呑ませるという取引に成功します。
続くテーマとして、この岡田・広田内閣の時期を出発点として近衛内閣期に至る時期、そしてやがて大政翼賛会成立にあわせて政党が解消される時期までの期間を対象に、近衛に抵抗した立憲民政党の動きについて述べていきたいと思います。民政党の動きを理解するために、その機関紙である『民政』を活用していきたいと思います。
( 次回投稿に続きます。)