「仲裁者」を育てる教育を

 SNSに投稿されるいじめや暴行の動画は、単なる「事件の記録」ではないはずです。いじめや暴力を行っている者だけでなく、撮影者や周囲で煽る者、沈黙する傍観者、すべてが「加害者」だと認識できる「犯罪そのもの瞬間」を捉えたものだと考えます。さらに、SNSを中心とした拡散を行うことによって報酬を得ようとする悪意あるインフルエンサーたちによって、その暴力は加速していくことも見逃すことができません。加害者も傍観者もどこまでも暴走していくことに自覚していないとき、私たちは古典的な心理学の知見を思い出さざるを得ません。「ミルグラム実験」が示した権威への服従、「スタンフォード監獄実験」が示した役割の暴走、これらはいずれも、人の行動は個人の理性よりも「状況」に強く規定されるという不都合な真実を突きつけています。

 しかし、そこから出てくる結論は、決して「人間は弱いから仕方がない」ではないはずです。むしろ、状況が人を縛るのならば、状況を変える教育と社会の技法に着目すべきだ、という逆説を見出すことができるのではないかと私は考えています。アウシュビッツの看守をはじめとするヒトラーへの服従者を生み出したのは、特定の「悪い個人」だけではなく、非個人化された官僚的システムと同調圧力であり、ハンナ・アーレントが呼んだ「悪の凡庸さ」であるのではないでしょうか。ならば、凡庸さに抗うための教育は何か——その答えを、私は「仲裁者」の育成に求めたいと思います。

1. 「観衆」から「仲裁者」へ

 いじめ問題では、傍観者は、その数が増えるほど誰もその場面や事件全体に介入しなくなると言われています。責任の分散を望み、自己への転換を恐れ、状況の曖昧さを積極的に解明しようとする意欲を持たないからです。ですが、教育は、この状況を抜本的に改善できるものだと私は信じています。その鍵は、役割の明確化と手続きの訓練でしょう。いじめ問題に学校教育が正対していくためには、生徒指導を「叱責」中心から、「役割設計」中心へと再編しなければならないと思います。いじめ問題に介入しようとする時、ただ秩序を再編する者一人がいればよいのではなく、他にも、助けを呼ぶ者、記録を整理する者など、それぞれの役割が学校生活の中に必要とされるはずだと考えています。指導者である教育者が、このような具体的な役割を明確にし、日ごろからその役割の意義の説明と生徒それぞれにその適性を自覚化させることに注力していれば、生徒たちは自律的な自治を組み立てていく機会を得るのではないかと私は思っています。もちろん、簡単なことではありません。この成功のためには、教育者の観察による「生徒観」「指導観」が必要になってきます。教育者の技量の基底といっていいでしょう。

 そして、その指導のありかたは、「善意に頼らない」こと、「勇気に頼らない」ことを重視して伝えていくことだと私は思います。アリストテレスは勇気を美徳として人間の資質に第一に必要とするものと捉えましたが、勇気を最初からふるえる人はそんなに多くありません。この事実にこそ、着目すべきだと思うのです。そうであれば、準備・訓練された「役割」は、その勇気の必要量を下げるはずです。役割が人をいとも簡単に悪逆な者に変えるならば、善い役割を先に用意すればよいのではないでしょうか。つまり、その教育のポイントは防災教育と同じようなものではないかと思うのです。日頃からの訓練と繰り返しが、「自分で命を守ることのできる防災教育」につながるならば、いじめが起きたらどう動くか、「役割」と「動き方」を訓練し、繰り返し行動させていく、それが教育者にとって必要な「生徒指導」だと思います。

2. アルゴリズムへの逆接近に挑戦する

 SNSは現代生活に絶対に必要なツールといえます。ましてや、このSNSがあったからこそ、闇に葬られていた事件が明るみになったとの指摘は数多くあります。私も、この可能性を積極的に肯定する人間です。ですが、一方で、「暴力への快楽」に共感と報酬の可能性を見出す閲覧者を生み出すこともまた事実です。再生数、いいね、共有、これらは「承認の通貨」として「善き想い」を容易に駆逐します。この事実を踏まえた時、私は教育はあえてこの伝搬力を活用して、倫理の設計を動画コンテンツの設計に埋め込めばよいのではないかと提案したいと思います。学校教育内での動画撮影や視聴を禁止にするのではなく、「何が共有されるべき善なのか」を明示して、それを生徒たちの日々の生活に埋め込んでいくことが重要だと思うからです。

 たとえば、①いじめ問題の解決に成功した他校の事例研究を探究の授業や生徒会活動の活動として提案してみるのはどうでしょう。生徒たちは、他校のすばらしい実績を学ぶことを通して、「ならば自分たちも」と自分の学校のブランディングをよりよくしたいという想いが自然にわいてくるものと私は思います。また、積極的に生徒たちに動画撮影を許可し、いじめ暴力に介入できるメッセージを集めていくことを支えてみてもいいでしょう。最初は「違和感」や「嘲笑」がおこると思いますし、その熱さは広がらないかもしれません。しかし、上杉鷹山の「改革の火種」がすこしずつ米沢藩内に広がっていったように、継続して取り組んでいけば必ずこの取り組みのすばらしさを学内で広げていくことができるのではないでしょうか。学校内で、「尊厳の保護」こそが「堂々とした大人への成長」なのだと確立していけば、生徒たちは自然に受け入れてくれるものと私は信じています。この時、大切なのは、この活動の主軸に保証人や評価委員など学外の方々にお願いすることだと思います。学内に学外の良識を取り入れていくことは「チーム学校」の要点だと思いますし、「社会に開かれた教育課程」を実現するための重要な視点だと思います。閉鎖された空間はどうしても空気がよどみます。しかし、たとえ空気がよどもうとしても、新鮮な空気をとりいれる機会が常にあるならば、学校は再生できるはすです。

 動画拡散という生徒たちの興味関心によって形作られるアルゴリズムの力に抗うのではなく、自分たちこそが自分と他者の尊厳を守っていくことができるという物語をつくりあげていく力をそのアルゴリズムの特質にしていけばよいのだと思うのです。

3. 権威の正統化を肯定する

 ミルグラムの実験が示したように、権威への服従はある観点では人間の基本的特質だと思います。だからこそ、その権威のあり方をどう設計するかが私は重要になると思うのです。学校において権威というものはしばしば、校則や規律、教員の指示として表れます。しかし、これらの権威には納得できないことも多かったことは皆さんの経験にもあったのではないでしょうか。納得ができない校則など多かったのではないでしょうか。ですから、合意形成を経て可視化された規範でなければ、服従は容易に恣意へと堕するものと注意をしなければなりません。

 ここで有効なのが、熟議型の学校文化を構築して校則を再設計するプロジェクトを生徒たちに任せることだと思います。たしかに、校則というのは、校長に与えられた管理権のひとつです。その指導は、生徒たちに社会を構成する者としての良識を与えていく重要な機会でしょう。しかし、もうひとつ私たち教育者が重視すべき観点は、私たち教育者は何のために教えているのかということです。目の前に私たちが正対する児童・生徒・学生は「将来の主権者」です。彼らの成長を信じてこそ、私たちの社会は豊かになっていくのだと思います。ですから、できるだけ自治の裁量を与えていき、社会を統治する力量を鍛えていく、これこそが自由社会における重要な次世代への継承であり教育なのだと私は確信しています。生徒会による組織改革も有効だと思います。例えば、「いじめ撲滅委員会」などを生徒会で立ち上げてみたとしましょう。最初は、きっと共感を示す教員も生徒も少ないと思います。ましてや、教員においては、人事評価にかかわってくることなので、嫌がるはずです。しかし、それを継続して取り組み続けた時、「偉大な変化」が起きると思います。

 私たち教育者はその「将来の主権者」たちが考えたことの「最終決定権者」ではなく、「手続きの保証人」であるべきなのだと思います。権威とは、強制力ではないはずです。私たちが天皇陛下をこの国の象徴として仰ぎ奉るのは強制されているからではありません。およそ3000年にわたる私たち日本人の歴史と文化の中で連綿とつながってきた天皇という御位に対する信頼であり敬愛の情が自然と合意できているからこそ、私たちは天皇陛下に最上の権威を認めているのだと思います。それは、学校現場における教師と生徒の関係においても同じことがいえるのではないでしょうか。盲目的な服従ではなく、学校を互いに納得できる合意によって誠実に運営しようとする協力関係が構築できたとき、権威というのは真の意味で「敬愛」へと昇華するのだと信じています。

4.  小さな勇気の連続を大切にする

 「カッコウよい奴」というのは、漫画やアニメ、ドラマに出てくるようなヒーローを指すばかりではないでしょう。むしろ、日々の中にちりばめられた「小さな勇気」を丁寧に、そしてはっきりと自分のプライドとして大切にできる人のことを指すのだと思います。日々与えられた役割を確りと果たすことができる生徒、短い動画の編集を丁寧に取り組める生徒、自分たちの生活の自由を守るために生徒手帳を見つめることができる生徒、それらは小さな取組みにしかみえないかもしれませんが、いじめという暴力のアルゴリズムを断ち切ることができる決定的な力だと思うのです。

 私たちはしばしば、善意というものを「動機の純粋さ」で測ろうとします。しかし、ある声優さんがそのエッセイで述べられていたように(私がアニメを大好きになったきっかけの声優さんで尊敬しています)、「偽善も集まれば善になる」ことの何が悪いのでしょうか。私は他者の幸福を実現するために堂々と偽善を行うことができる強さの方が重要だと思っています。では、その偽善をどのように活用するか。これを教育の場に埋め込むべきだと考えます。

 私は、善意というものを「場の設計と手続きの実行度」で測るべきだと考えます。いじめ防止のための行動が学校生活の中の日常として当然のことと設計されていれば、たとえ、個人の行動の動機が揺らいだとしても、いじめ防止というシステムの発動は連続していきます。どんなに高く理想を掲げたとしても、行動がなすことがなければいじめ暴力という暴走は止まりません。仲裁者を増やそうとする様々な試みは、生徒たちに善意を強いることではないのです。いじめを防ぐための学校経営の手段を、誰もが参画できるようにしておくことにしかすぎないのです。これを成功させるためのポイントは、「迅速さ」と「透明性」でしょう。曖昧な情報は、噂の温床となります。不明瞭な手続きや行動は、猜疑心の源になります。ましてや、感情は過熱するものです。ですから、いじめ防止のために、いじめが露見した時に、誰が、いつ、何を、どの順序で行うかを、生徒たちの自治活動の中に組み込み、いつでも公開されている学校経営のプロトコルにしておくことが必要です。この点こそが、学校教育における重要な信頼というインフラでしょう。

5. 状況は人を縛る、だから状況を設計する

 「ミルグラム実験」や「スタンフォード監獄実験」は、人が状況に服従することを示しました。しかし、その結果がもたらす人間の行動の特質を何事も諦めるための理由とするのではなく、善き社会を設計するための呼びかけとすべきでしょう。

 誰かが「仲裁者」として問題に正対しなければ、学校や社会は壊れていく——この直感は正しいはずです。しかし、その「誰か」は特別な人ではないのです。特別の勇気もなければ、特別の権威をもっている人でもありません。毎日を何ごともなく過ごしているのは、教室のそこにいる普通の生徒たちなのです。アウシュビッツの看守とならないように、独裁者に服従する非個人化に抗する道は、個人の英雄化ではなく、偽善のための明確な役割と行動の共有化にあると考えます。「見られている」から「美しい行動をとる」という偽善こそが、人々の良識を保つ最善の道であると思うのです。その場、その時の集団圧力をその根拠にしてはなりません。集団や学校が長く保ってきた「伝統の美風」「建学の精神」に基づいた行動原則を生徒たちの自治の中に自然に組み込こんでいく教育技術が教育者には求められていると私は確信しています。

 今日からできることはたくさんあります。教室の壁に、学校の廊下に、いじめを防止するためのフレーズを貼っていく。生徒会がいじめ防止のためのプロジェクトを立ち上げる。保証人や外部評価委員、生徒たちを招き、ともに危機管理マニュアルを見直していく。生徒たちのSNSのアカウントを叱らず、共に楽しんでいくように、学校経営に巻き込んでいく。そういう小さな学校経営の設計が積み重なっていくとき、いじめ暴力の動画を悪意によって拡散していこうとするアルゴリズムは書き換えられるはずです。善き社会は、そういう日々の小さな積み重ねによって編まれていくと私は思います。

 あなたが学校を、社会をすこしでも変えていくためにそんなに難しくなく参加していけるアイディアを一緒に考えていきましょう。

 大丈夫、私たちの日本は変わっていくことができる。