憲法改正を放棄する政治対立

〇 マッカーサーはなぜ憲法改正を勧めたのか

 緒方竹虎は「憲法は占領軍によつて強制された」(修猷通信「修猷館創立七十周年記念講演」『復刻 緒方竹虎』二〇一二年、二〇三頁)と述べたわけですが、緒方の視点からいえば、現在の日本国憲法はGHQが作成したものだということになります。2016年8月15日、当時はオバマ政権の副大統領であったバイデン氏もペンシルベニア州スクラントンでの選挙集会の中で、トランプ現大統領を批判する形で「Does he not realize we wrote the Japanese constitution so they could not own a nuclear weapon?(日本が核兵器を持てないように我々が日本国憲法を作ったことをトランプは知らないのか?)」と発言しました。この後に、アメリカの大統領まで務め上げる人物の発言ですから、その理解の内容は大変重要です。日本国憲法が「与えられたもの」という認識は、緒方やバイデンのどちらの発言をとっても結果とする認識は同じです。

 ですが、東久邇宮稔彦王総理の回顧録を手掛かりにすると、敗戦後の日本国憲法の制定には「段階」があったことがわかります。その「段階」をどのように観察するかによって、憲法観は異なってくるのではないでしょうか。ですから、戦後憲法をどのように評価するか、この憲法をこのまま維持していくのか、それとも改正していくのかなどの議論を行う前に、この憲法がどのように出来上がって来たのかという経緯を知ることがまずは大事でしょう。

 戦後憲法の制定には、2つの視点があるのではないかと私は思っています。それは、①GHQによる日本政府や日本軍の政治的解体と、②日本政府自身による戦時体制からの転換を目指す2つの流れです。その両者の均衡が崩れた場面が戦後憲法制定の着地点だったと考えます。とくに、GHQは①の改革を実行するにあたり最初から最後まで一貫して同じ意図で取り組んでいたわけではなく、またGHQ内部で主導権を握るプレイヤもめまぐるしく交替することで、占領期の政治状況は多様で複雑なものになっていました。吉田茂をパペットプレイヤと評価する向きがあるのは、GHQ内部のセクショナリズムがそれほど深刻だったからです。

 そもそも、対日占領の開始当初、アメリカは日本を長期間にわたって占領する意図はなかったと言われています。とくに、アメリカ陸軍は国務省に対して、日本占領からの早期撤退を主張していたことは有名な話です。陸軍の主張を受けて、国務省も日本占領を18ケ月以内に終えるという目標を掲げていました。日本占領に関する方針は、戦時中から国務省と陸軍省、海軍省の三省による調整委員会によって策定が進んでいましたから、基本的な占領政策の方向性はアメリカ政府全体で共有されていました。この方針指令を、SWNCC指令(文書)と言います。初期の基本方針はSWNCC 150にまとめられています。この文書は1945年4月にはじまった三省調整委員会における極東小委員会に対して、非公式に提出された国務省のメモを基礎にして研究がなされた成果のひとつでした。国務省が公的に決定した書類ではありませんでしたが、極東小委員会に提出されたこの4月メモ『対日初期戦後政策の概要』では、日本の無条件降伏とカイロ宣言に基づく領土の再編成を想定していました(同文書は国立国会図書館によるWEBサイト「日本国憲法の誕生」に掲載)。また、脅威のない日本に再改造し世界秩序に再参加させることを占領後の政治目標として掲げています。このメモを基礎としてSWNCC150がまとまるわけですが、そこには天皇の憲法上の権限や政府機能の停止がうたわれていました。この文書では、占領当初の方法として米軍による直接の軍政が想定されています。この指令は後に何度も修正を加えられ、最終的にトルーマン大統領の承認を経てSWNCC150/4/Aという指令にまとまります。

 このSWNCC指令をみると、アメリカが日本の憲法改正を当初から考えていたことは明らかだと私は思います。SWNCC150のⅡ-2の項目(軍政の政治目標)であげられた、民主的プロセスのstrengthening(補強)という意味をどのように捉えるか次第かもしれませんが、文脈全体を日本の再改造であると捉えれば憲法を改正することでしかこれらの目標を実現できないからです。

 9月21日にまとめられたSWNCC 150/4/Aには、民主的な自治の原則による政府の運営や個人の人権の保障などが明記されていますが、これらの要求は憲法改正を果さなければ実現できないものでしょう。しかし、この文書にはある制約が課されていました。まず、この文書についてはアメリカ政府の各省庁に配布されるものの、秘書官たちをはじめそのコピーを保有することが厳しく禁止されています。それは、この指示が「公表されてはならない」ことを意味しています。そして、日本政府は通常の統治権限の行使が許可されることになりましたが、この2点目については軍政を「間接占領」の形式に切り替えることを示していますから、最初のSWNCC150の内容から大きな変更を遂げたことを示しています。後に衆議院憲法審査会事務局がまとめたように、ポツダム宣言という協定を結んでいる以上、日本国憲法の制定はハーグ陸戦条約には違反しないとする見解を日本政府は踏襲していると考えますが(衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法の制定過程」に関する資料』衆憲資第90号,2016年,15頁。)、このアメリカ政府の動きは(・・・逆説的な評価となりますが・・・)国際的な批判を避けようとしたものだったのではないでしょうか。

 このように、日本政府への直接的な介入を避けようとするアメリカ政府は一方で、対日占領のトップについたマッカーサーに対して占領統治に関する広範な権限を付与しています。SWNCC150で既に連合国軍最高司令官が日本の内政と外交にかかわる全ての権限を掌握することを規定していました。この占領官としての最高地位に伴う明確な権限のもと、マッカーサーは東久邇宮内閣の副首相格であった近衛文麿との10月4日の会談において、近衛に対して突然に憲法改正を勧めます。このマッカーサーの勧告の意図を検討することが、この時点では最も大事だと思います。

 マッカーサーは東久邇宮内閣が倒れることを想定していたのか、それともその辞任に対して当惑したのか、どちらだったのでしょうか。内務省警保局を中心とする警察組織の抜本的な刷新を指示されたことによって東久邇宮内閣は退陣となるわけですが、同内閣の柱である近衛にその後の重要な改革の動きとしてその瞬間に憲法改正を勧めるのは道理にあいません。ましてや、近衛を戦争犯罪人として指定する動きも、米太平洋陸軍総司令部法務部(Office of the Judge Advocate, GHQ/USAFPAC)やGHQの民間諜報局(Civil Intelligence Section, CIS)が指揮する防諜隊(Counter Intelligence Corps, CIC)が既に始めていたのです。戦前の経歴から、近衛も自分の身に迫る危機を理解していたでしょう。マッカーサーの勧告を受けて、「今後ハ元帥ノ激励ト助言トニ依リ国家ノ為出来得ル限リ御奉公シ度イ考テアル」と近衛は応えます。その近衛の反応に対して、マッカーサーは「ソレハ洵ニ結構テアル、公ハ所謂封建的勢力ノ出身テハアルカ『コスモポリタン』テ世界ノ事情ニモ通シテ居ラレル、又公ハ未タ御若イ、敢然トシテ指導ノ陣頭ニ立タレヨ、若シ公カ其ノ廻リニ自由主義的分子ヲ糾合シテ憲法改正ニ関スル提案ヲ天下ニ公表セラルルナラハ議会モ之ニ蹤イテ来ルコトト思フ」(資料「近衛国務相・マッカーサー元帥会談録」は国立国会図書館によるWEBサイト「日本国憲法の誕生」に掲載)と激励するのです。近衛が、マッカーサーによって敗戦後日本の指導者に選ばれたと誤解することは仕方がなかったともいえます。

 この近衛へのメッセージをマッカーサーに助言したのは、GHQの政治顧問であったジョージ・アチソンだったと言われています。事実、マッカーサーとの会談の四日後、近衛は秘書の牛場友彦と東京帝国大学教授の高木八尺、民報社社長兼主筆の松本重治と連れ立ってジョージ・アチソンに会いに行き、憲法改正に向けての具体的な打ち合わせを行っています。

 高木は戦前からマッカーサーの副官であるボナー・フェラーズ准将と知己の関係でしたし、米国政治や制度研究を専門としたアメリカでもその名が知られている研究者でした。高木の助手を務めたこともある松本重治もまた大学院時代にはイェール大学やウィスコンシン大学に留学したことがあるアメリカ通でした。この会談で、ジョージ・アチソンは、近衛たちに対して個別具体的に憲法改正の要点を解説していることが既にわかっています(憲法調査会事務局『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』1961年,134-141頁)。ただし、この時の「解説」事項の中には、象徴天皇制のことも戦争放棄条項のことも入っていません。

〇 日本政府側からの憲法改正への取組み

 そもそも、帝国憲法を改正するためには、天皇陛下によるご指示がなくてはならないと日本側は考えていました。「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ、朕及朕カ継続ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ、之ヲ議会ニ付シ、議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外、朕カ子孫及臣民ハ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」という定めが、帝国憲法の前文にはあったからです。73条にも、「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」「此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス」とあります。欽定憲法としての意義を持つ帝国憲法を改正するためにはあくまでもこの原則に拠って果されなければなりませんでした。この原則から外れるということは、帝国憲法と一体の関係である國體を破壊することにつながってしまうからです。しかし、ポツダム宣言が抜本的な構造改革を日本に求めていた以上、帝国憲法の改正は避けられないことだったでしょう。その課題に気づいた人物のひとりに、当時の内閣法制局第一部長であった入江俊郎をあげることができます。入江は9月18日には『終戦ト憲法』とタイトルをつけた提案書をまとめています(同文書は国立国会図書館によるWEBサイト「日本国憲法の誕生」に掲載)。そこでは、軍に対する天皇大権の変更や議会改革、憲法改正の手続きを提案しています。この憲法改正案のまとめ作業は入江ひとりの仕事ではなく、当時の法制局長官であった村瀬直養が法制局全体を指導していた感が強いと私は思っています。入江案を村瀬が押しとどめたという評伝もありますが、村瀬直養氏追悼録編纂委員会編『村瀬さんの想い出』(1970年)を確認すると、村瀬が積極的に憲法改正に関する研究調査をはじめていたことがわかります。村瀬が東久邇宮内閣発足の当初から憲法改正に向けての研究調査を進めようとしていたことは、山下静一も証言しています(『村瀬さんの想い出』523頁)。その後、東久邇宮稔彦王総理の外国人記者たちとの9月19日の会見の際に、憲法改正については「未だその問題について考える時間的余裕がない」と東久邇稔彦王宮総理が述べたことで、村瀬を中心とする憲法改正案の研究作業は中止されたと言われます。村瀬自身は、毎日新聞の論説委員を務めた平岡敏男との対談の中で、貴族院議員として枢密院書記官長への就任を枢密院議長となった鈴木貫太郎に直接打診され、枢密院を主体に憲法改正問題に取り組もうとしたようですが、公職追放になったために憲法改正に携わることができなくなったと証言しています(『村瀬さんの想い出』633頁)。

 東久邇宮稔彦王殿下の自伝『私の記憶』(東方書房、一九四七年)の中にあるように、もし本当に東久邇宮内閣が憲法改正を想定して動いていたならば、近衛がその中心にいたことになります。近衛がその後に出してくると考えられる憲法改正案についての議論を法制局案よりも優先的させることが当然だったはずだからです。『東久邇日記:日本激動期の秘録』(徳間書店、1968年)によれば、東久邇宮稔彦王総理とマッカーサーとの9月15日の会談では、日本政治の民主化と婦人参政権の問題がテーマにあがったと言います。その会談には確かに憲法改正についての直接の言及はありませんので、この会談をどのように評価するかは歴史家の意見の分かれるところでしょう。ですが、もし東久邇宮稔彦王殿下の回顧を重視するならば、近衛は憲法改正について10月4日以前から動いていたということになります。緒方竹虎が憲法改正作業に携わっていた可能性があるとた私が指摘するのは、その日付の意味が大変重要になるからです。なぜならば、東久邇宮稔彦王総理がマッカーサーとの会談や前後の政治的背景により憲法改正を意識していたならば、閣内における実務は「内閣が憲法改正を担当する」ことを政治的に意味するからです。決して、近衛個人の政治活動ではなくなると思います。また、『東久邇日記』の9月25日と26日の記録を確認すると、近衛も緒方もマッカーサーが直接近衛に憲法改正を指示したと東久邇宮稔彦王総理に報告をしています(『東久邇日記』243頁)。これは、通説となっている「10月4日説」とは異なる記録となります。近衛と緒方が工作したのか、それともGHQが日付の記録を操作したのか、検討をしなければならない点でしょう。さらに、『昭和天皇実録』を確認すると、昭和天皇陛下が憲法改正について緊急を要するために近衛に対して憲法改正担当の役割を与えたいとの木戸幸一の願いを御聴許なされるのは、10月10日のことでした。東久邇宮内閣は倒れ、幣原喜重郎政権に移行した後での記録だということを私たち日本人は認識しておくべきでしょう。御存知のように、東久邇宮内閣が退陣することでGHQとしては、憲法改正に向けた相談を行っていた内閣が無くなり憲法改正の実務は次の内閣の登場を待たねばなりません。当然、東久邇宮内閣の一員であった近衛の役割も無くなるわけです。そのような状況の中で、10月4日にマッカーサーが近衛個人に政治的リーダーシップの発揮を期待する発言を意図なく行うでしょうか。このマッカーサー発言は、大きな政治問題となっていきます。

〇 なぜ憲法改正を急がせたのか

 日本の憲法改正と民主化を実現する先に、アメリカは何を求めていたのでしょうか。それは、ソヴィエトに対する防波堤としての日本の再建です。既にヤルタ会談の時に、スターリンは外蒙古からさらに外に向かって満州や樺太、千島列島の支配権を要求していました。そもそも、これら地域の支配権をめぐって日本と争っていたのはロシア帝国であり、日本と相争ったのはソ連ではありませんので、これらの権益を日本から「取り戻す」というロジックは存在しないばずです。アメリカやイギリスはソ連の要求にその後の危機感を抱きつつも、可能な限りの軍事的消耗を減らすためにはソ連との提携は外すことができない外交戦略として受け入れるしかありませんでした。

 未だに、原爆投下は日本との戦争を速やかに終了させるための最も適した判断であったと受け入れているアメリカ人の方が多いのは、このソ連との関係があるからです。アメリカが原爆を戦局の最終盤にあってなぜ2発も投下し続けたのか、それは終戦に向けてのソ連の貢献を少しでも減らすことを、アメリカは達成すべき政治目的として絶対視していたからです。

 もちろん、ソ連にも対日参戦について弱みがなかったわけではありません。日ソ中立条約の第3条には「本条約は、両締結国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく目5年の期間効力を有すべし。両締結国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の破棄を通告せざるときは本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし」とあります。これをそのまま読むと、①そもそも条約破棄の規定がないこと、②破棄については次の5年間の更新の有無についてのみであることの2点が明確に書かれていることがわかります。ソ連が同条約の破棄を日本に通告したのは、1945年4月5日になります。つまり、ソ連は1946年4月5日までは日本に対して軍事侵攻ができないのです。この弱点を、国際的な参戦要求という「政治」によって覆い隠したのが、ルーズベルトでした。ヤルタ会談やポツダム会談におけるアメリカとソ連の政治交渉の積み重ねはそのような意味を持つのです。ただし、ソ連の権益が拡大するヤルタ協定については、戦後になってアメリカはすべて無効であると公的に宣言しています。サンフランシスコ講和条約でさえも、このヤルタ協定を認めていません。現在の北方領土問題を考えるとき、いかに歴史認識が重要であり、国力に基づいた政治交渉をリーダーが実行できるか、これにかかっていることを痛感させられます。

 ソ連を利用するだけ利用して、戦後の影響力拡大を押しとどめようとしたアメリカの意図は、すぐに具体化されます。ポツダム宣言を受け入れた日本軍の武装解除や受入れについて、その担当地域の割り振りをアメリカが行います。マッカーサーが発した「一般命令第1号(General Order No. 1)」は、ソ連に朝鮮半島や満州、樺太、千島列島の接収担当を命じていますが、それは決して「領土にしてよい」という意味ではありません(外務省HP「外務省外交史料館 戦後70年企画 『降伏文書』『指令第一号』原本特別展示」にて紹介)。アラン・R・ミレットが「マッカーサーの戦域における任務は、1945年のソ連の作戦が示唆していたように、北海道を目標としていたと思われるソ連の侵略から日本を防衛することであった」(「『不意打ち』に驚かされることを嫌った将軍 -ダグラス・マッカーサーと朝鮮半島 1950~1951年-」『紛争の想定外の拡大 令和元年度戦争史研究国際フォーラム報告書』防衛省防衛研究所、2020年、35頁)と指摘したように、アメリカ政府やマッカーサーには、ヤルタ会談でのソ連に千島列島を渡すという協定を履行するつもりはなかったのでしょう。ソ連は、このようなアメリカの強硬な態度に驚いたのではないでしょうか。連合国軍の最高司令官となったマッカーサーもソ連との交渉には一切妥協がありませんでしたから、ソ連の思惑も計画通りには進まなかったのだと思います。

 ソ連はアメリカ政府の中に広大なスパイ網を張り巡らせていました。例えば、ルーズベルトの側近としてヤルタ会談にも同席していたアルジャー・ヒスが、ソ連のスパイであったことは特に有名です(但し、彼は冤罪であったという意見も多数あります)。他にも、レーニンに惹かれてアメリカ共産党に入党したウィタカ・チェンバースというジャーナリストも有名です。彼は、GRU(連邦軍参謀本部情報総局)のメンバーでもありました。チェンバースは、スターリンの行動に落胆して1940年前には共産党を離党したとされていますが、その間までに築き上げたソ連のアメリカ政府内におけるスパイ網はもう揺るがないものになっていたのでしょう。国務長官のコーデル・ハルを補佐していたローレンス・ダカンや大統領特別補佐官としてチャイナ・ハンズを担当していたロークリン・カリー、かつて司法長官の特別補佐官を務めていたジョン・アプト、アメリカを代表してブレトン=ウッズ国際会議をまとめたハリー・デクスター・ホワイトなど、アメリカ政界・官界の大物がソ連のスパイとなっていました。これらの情報はその後に再調査などもされていますが、大事な点はソ連による工作は二重三重にもわたってネットワークを築いており、スパイとされた本人も知らない間にソ連の工作に関係していたこともあったという点でしょう。また、面白い事実として、これらの人々の多くはルーズベルト政権でニューディール政策を推し進めた人々でもありました。この経済政策としてのニューティール政策を潤滑なものにしたのは武器貸与法でしたが、同法の制定を主導したのが財務省でした。武器貸与法はアメリカ国内の経済を活気づけただけではなく、ソ連はこの武器貸与法を活用して自軍の機械化に成功するのです。つまり、国務省や財務省を中心にして、ホワイトハウスや政府、議員事務所などに、ソ連は幅広いスパイ網を築いていたと指摘することもできるのではないかと思うのです。

 なぜ、アメリカはこのようなソ連のスパイ網の影響力を軽視したのでしょうか。おそらく、ソ連の影響よりもナチスの影響の方を重視したからでしょう(アメリカにも「ドイツ系アメリカ人協会(同盟)」のように親ナチス団体はありましたし、日本も政治工作を行っていますので、まさに第二次世界大戦はその名称そのままに国際戦争だったということでしょう)。日米開戦以降は、親ナチズム団体はことごとく壊滅されたとはいえ、そのアメリカの反ナチズムの状況を活用して、ソ連は満州獲得を確実に果たすための政治工作を展開していくのです。

 影響力を拡大するソ連が、領土拡大以外に要望してきた戦後処理が「天皇の処刑」でした。アメリカ国内においても、そのような世論が形成されていました。政府の中にあっても、チャイナ・ハンズの代表者であった国務次官のディーン・アチソンなどが「Hang Hirohito」と主張していました。一方で、日本には天皇を残さなくてはならないと考えていたアメリカ政府の高官たちもいました。ヘンリー・スティムソン陸軍長官(原爆投下によって戦争を早期に終結させると構想したのはこのスティムソンです。京都を除外して、広島を選んだのも彼でした)や、国務長官代理を務めていたジョセフ・クラーク・グルーです。このようにルーズベルト&トルーマン政権の中では、昭和天皇という「装置」を存続させようという意見を持っていた者もいました。政権内で、2つの意見が対立していたのです。

 コーデル・ハルやジェームズ・フランシス・バーンズ国務長官のように、ポツダム宣言の文章の中から「天皇の存続」という一文を削除することを強硬に主張していた国務省の主流派の動きを「レッズ」と疑っていたマッカーサーは、天皇を戦犯として断罪することは決して日本の占領改革を効率よくさせるものではないと彼らの主張をふりきっていきます。国務省と陸軍の対立として観察できるかもしれません。

 また、中華民国の動静も決して穏やかなものではなく、さらには、戦争指導に関して伴走者であったはずのイギリスも政権交代が起こり、結局、マッカーサーが踏みとどまらなければ日本の安定的な民主化というアメリカの国益は追究できないという状況に陥っていました。その不安定な政情とともに、戦争終結に伴う早期帰国を願う兵士を全面的に活用できないという事情もあり、マッカーサーは日本の旧秩序である官僚機構等の温存と活用をはからなければなりませんでした。

 その必要と確認はSWNCC 150/4/Aに明記されています。ですが、それは決して占領が旧秩序の「支援」を行うということを意味するものではありません。例えば、皇室財産の処理や戦争責任者の拘束が占領方針として同文書で確定していますから、その具体化としてGHQは12月2日に梨本宮守正王殿下を戦犯として逮捕しています。元帥陸軍大将の階級にあり、かつ伊勢神宮祭主を務め、また神職を養成する皇典講究所の総裁であった梨本宮守正王殿下を逮捕することで、皇族も戦争犯罪から逃れることはできないというメッセージを発するのです。昭和天皇陛下を処断しようとするソ連をはじめとする諸外国に対してのパフォーマンスとして十分に有効なものとなったでしょう。ただ、この逮捕はあくまでも政治的パフォーマンスだったと思いますから、梨本宮守正王殿下は翌年の4月13日に釈放されています。

〇 憲法改正を担当するのは内閣か内大臣府か

 東久邇宮内閣の副首相格としてマッカーサーと会談し、憲法改正を果す期待を背負った近衛でしたが、会談の直後、同内閣は倒れてしまいます。当然、近衛は憲法改正についての権限を失うわけですから、この瞬間から近衛に対する戦犯指定の動きは本格化していきます。私の予測ですが、マッカーサーは警察改革の指令ひとつでその瞬間に東久邇宮内閣が倒れると想定していなかったと思います。GHQが下す占領指示と同等の国内治安に関する権力を奮おうとした山崎巌内務大臣を更迭し、日本の警察組織を刷新することで、GHQの権力を「再確認」させたいとしただけではなかったのではないかと思います。マッカーサーと昭和天皇陛下の会談時の写真を掲載した朝日新聞、讀賣報知新聞、毎日新聞の各紙を発禁処分として回収指示を出した山崎に対して、その指示をGHQは即座に無効にする通達を出します。この山崎の抵抗はGHQが内務省を徹底的につぶそうと考えたきっかけのひとつと言ってもよいと思いますが(尚、組織改革を経て内務省は存続する方向に本来はあったと思いますが、内務省の手痛い政治的ミスにより廃止に踏み切られてしまったと私を考えています)、マッカーサーの狙いは内務省への政治的な牽制にしか過ぎなかったと思います。SWNCC150/4/Aで秘密警察組織は廃止すると決定していたアメリカにとって、根本的な占領政策を理解していない旧秩序を政治的に排除しようとすることは当然の政治的決断だと思うからです。

 しかし、内閣が倒れるというような政治的反応が起きてしまいました。この内閣退陣によって憲法改正に携わる立場を失った近衛でしたが、その直後、また新たに憲法改正に携わる立場を獲得します。マッカーサーの発言を考慮するならば、近衛が引き続き憲法改正に携わることがよいのではないかと木戸幸一内大臣が高木と相談をして、近衛を内大臣御用掛に任じます。近衛はこの委嘱を正式に昭和天皇陛下に拝謁して認められています。その際、「ポツダム宣言の受諾に伴ひ大日本帝国憲法改正の要否、若し要ありとせば其の範囲」について調査することを命じられました。この勅命については、石渡荘太郎・宮内大臣が当日中に幣原総理と次田大三郎・内閣書記官長とも協議しており、新内閣は憲法改正についての近衛の立場を容認するところから始動しています。幣原総理はそもそも憲法改正をする必要がないという意見を持っていたと言われていますので、マッカーサーとの指示であろうとも近衛の動きを軽視していたのかもしれません。

 ところが、この人事に猛烈に反対する人物がいました。新内閣の国務大臣となった松本丞治です。松本大臣は、組閣当初から新内閣の大きな仕事は憲法改正になると唱えていました。ところが、近衛が憲法改正の調査を行うということが認められ、それを総理大臣と書記官長が認めてしまったわけです。憲法改正という極めて重要な国政の課題を内大臣府が取り扱うことは筋道が通らないと閣議の場で激しく主張したと言われます。『木戸幸一日記』ではそのような表現とはなっていないのですが、その後の混乱や激しい国内対立を踏まえると、松本大臣が激しく内大臣府を批判したと伝わっていることのほうが当時の実情に近いのだろうと思います。

 結局、内閣でも憲法改正の研究を進めて松本大臣をその主務大臣とすることが決定されました。松本大臣としては、これで憲法改正は近衛の手で進められるのではなく、政府の主導に戻ったはずです。13日には、松本大臣が近衛に直接会い、例え昭和天皇陛下が憲法改正を御発議されるための準備であったとしても、憲法改正の実務を進めるのは宮中で常侍輔弼する内大臣府ではなく内閣の仕事であると強調しました。内大臣府官制の一条は「内大臣府ニ於テハ御璽國璽ヲ尚蔵シ及詔書勅書其ノ他内廷ノ文書ニ関スル事務ヲ掌ル」としているわけですから、近衛や内大臣府の憲法改正に関する立場は非公式なものでなければならなかったと私は思いますし、松本大臣もそのように考えていたでしょう。

 ですが、近衛の憲法改正に対する関与度は尚強くなっていきます。佐々木惣一も内大臣御用掛に任命してもらい、2人で憲法改正の調査に乗り出していくのです。佐々木は京都から上京してこの職を受けるだけでなく、弟子である大坂府立淀川工高校長の大石義男や立命館大学教授の磯崎辰五郎に自らの手伝いをするように上京を指示します。近衛は佐々木の力を借りて、憲法改正のための調査研究に着手していくことになるのです。

 このような積極的な近衛の動きもあり、憲法改正に対する世間の受け止め方は松本大臣が望むようなものにはなっていきませんでした。当時の多くの新聞が報じているところですが、政府と内大臣府が連携をして憲法改正にあたるということが国民一般の受け止め方だったのです。しかし、近衛が具体的な憲法改正のポイントとしてNBC放送のインタヴューに応えて、昭和天皇陛下の御退位についてという踏み込んだコメントを行ったことが、近衛への支持の流れを変えていきます。さらに、同時期に発刊された『Stars and Stripes』で、昭和天皇陛下が憲法改正を望まれているものの、幣原総理は憲法改正に進まなくても現状の事態に対処できると考えているのではないかとの関係者の憶測があるということが伝えられたことで、近衛と政府の対立は深まっていくことになります。

 近衛の立場を危ういものにする事態はさらに起きます。憲法改正を調査するためにと近衛を内大臣御用掛に任命した木戸が、その自らの官衙を廃止することを石渡と相談する中で決意したことが『木戸幸一日記』の10月15日の記録の中に出てきます。宮中組織を一元化することとGHQが望む民主化を具体化することの2つを狙った決断だと思いますが、この改革は近衛や佐々木から公的な発言力を奪うことも意味します。当時、蝋山政道や宮沢俊義は新聞紙上で、憲法改正に関する内大臣府や近衛の関与を憲法違反とさえ断じて批判しており、近衛は追いつめられる一方でした。

 しかし、近衛もひきません。AP通信の記者と会い、あらためて自身の意見を述べています。佐々木も『毎日新聞』紙上で内大臣府として憲法改正の調査を進めることは憲法違反ではないと反論を行いました。ここまでくると、GHQの占領行為に対して、一致して皇統と国民、國體を守らなければならない日本側指導者内部で激しい路線対立が起きていたと断じざるを得ません。終局的に、日本国憲法が「押し付けられた」理由はこのような敗戦直後から続く日本人同士の政治闘争にあるのではないでしょうか。

 松本大臣もこの内部対立は日本全体のためにはよくないことだと理解していたようで、佐々木を憲法改正の調査委員会に加えたいと記者会見で発表します。ですが、23日の『読売新聞』で、近衛とAP通信との会見内容として、憲法改正の草案は昭和天皇陛下に奉呈する前にGHQの承認を求めることになるだろうと発表してしまったのです。あらためて近衛に会った松本大臣は、近衛にこれまでの発言内容を訂正すべきであると強く説得します。この結果、近衛は霞山会館で記者会見を行い、憲法改正についての作業は政府が主導するものであると発表をいたしました。そして、松本大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が総理官邸会議室を舞台として展開されていくこととなります。第1回総会は、10月27日に開催されました。

〇 誰が誰を裏切ったのか

 10月17日、アメリカの国務省はジョージ・アチソンに対して訓令を発しています(同文書は国立国会図書館によるWEBサイト「日本国憲法の誕生」に掲載)。その訓令は、憲法改正に関する国務省の考え方を整理したものでした。ジョージ・アチソンが近衛を相手に憲法改正の要点を解説していた以上、国務省から派遣されたマッカーサーの監視役であるアチソンの行動は、アメリカ政府の外交をつかさどる国務省の考え方そのものであったと受け止めるべきでしょう。10月17日の訓令で発表された内容は、天皇を維持するか廃止するか、双方それぞれの結果のシミュレーションをしたものでした。内閣や議会の天皇大権からの独立化や文民統制に関する提言がまとめられています。このような国務省の意見を基にしたアチソンの助言をもとに憲法改正案がまとめられ、10月22日に近衛が、10月24日に佐々木が昭和天皇陛下にそれぞれの案を奉答しています。マッカーサーの意向通りに、近衛は動いたと言えるでしょう。

 しかしながら、11日1日になってGHQは突然、次のような声明を発表します。

   近衛公爵が日本憲法改正にはたしている役割について、重大な誤解が存在している模様である。近衛公爵は、連合軍当局によってこの目的のために選任されたのではない。近衛公爵は、東久邇宮首相代理の資格において、日本政府は憲法改正を要求されるであろう旨を通告された。その翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、本件に関する同公爵と連合軍当局との関係は、これをもって終焉した。(中略=引用者)近衛公爵のその後の関係はまったく皇室との関係にとどまり、連合軍総司令部は同公爵をまったく支持していない

 近衛にすれば、衝撃だったでしょう。マッカーサーから直接、新たな政治指導者として憲法改正に取り組むべきだと激励と保証を受けたはずだと思っていたと思います。それにもかかわらず、手のひらを返したように、GHQは近衛との接触を拒否することになったのです。帝国議会(第89回)でも、戦争責任問題が取り上げられることになりました。例えば、齋藤隆夫や濱地文平の発言を取り上げることができます。齋藤は「(近衛に)戰爭の責任がなくてはならぬ」と批判し(第89回帝国議会・衆議院・本会議・1945年11月28日)、濱地も近衛の「優柔不断」が戦争を招いたと断罪しました(第89回帝国議会・衆議院・予算委員会・1945年12月10日)。議会だけでなく国内における支持も、近衛は明確に失っていきます。さらには、11月9日から、近衛はアメリカの戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing Survey:USSBS)によって監禁され、戦争指導に関する事情聴取を受けることになります。CICの調査分析課からも、戦前の近衛の動向についてレポートがあがってきます。そのように、近衛を擁護する余地が無くなっていき、そして、GHQは遂に12月6日になって、近衛を戦犯に指名したことを発表しました。この後の結末は、既に述べた通りです。

 この間、近衛に憲法改正の要点を細かく指導していたGHQの政治顧問であるジョージ・アチソンは、なぜ近衛を守らなかったのでしょうか。国務長官であるバーンズは、アチソンに対してマッカーサー批判を示唆するアメリカ国内の新聞記事を送ったりしています。例えば、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』などは、なぜ近衛を改革者として選んだのかと激烈に批判していました。このような政治状況を受けて、ジョージ・アチソンは、トルーマンに対して、マッカーサーが憲法改正を示唆したと近衛が受け取ってしまったのは通訳を務めた奥村勝蔵の誤訳であるし、近衛を騙そうとする反道徳的な行動を自身は本当は取りたくないのだとの弁明の報告書をあげています。しかし、ジョージ・アチソン自身が近衛に対して、積極的に「解説」をしているのですから、この弁明は通らないでしょう。ジョージ・アチソンは、トルーマンにも、バーンズにも、マッカーサーにも良い顔をしようとしたのです。ジョージ・アチソンは中国共産党と深いつながりをもっていましたし、また、この時点では国務省から派遣されているという点においてもマッカーサーから疑われていた可能性があり、憲法改正問題から遠ざけられることとなります。近衛を利用したのは誰なのか、近衛を利用するようにマッカーサーにささやいたのは誰なのか、国務省の方針とマッカーサーとの対立に動揺したのは誰だったのか、それらはこのジョージ・アチソンの行動が証明していると私は思います。

 少なくとも、国務省と直接つながっているジョージ・アチソンの行動が、マッカーサーの行動を制約しかねない状況になりつつあることをマッカーサーは危惧していたのではないでしょうか。例えば、日本占領の新たな組織として国務省が中心となって「極東委員会」を設置しますが、マッカーサーはまったくこの動きを知りませんでした。12月26日に、アメリカ、イギリス、ソ連の外相会談によって、マッカーサーよりも上位組織として極東委員会を設置し、日本の管理を行う組織としても「対日理事会」を設置するモスクワ会議コミュニケが発表されます。日本の憲法改正は、この極東委員会の承認がなくては動かなくなります。国務省から派遣されてマッカーサーの側にいるジョージ・アチソンが知らないはずはありません。しかし、この国務省の動きに対して、アメリカ国民からマッカーサーの統治を阻害する行為だと国務省への批判とマッカーサーへの擁護の運動が起こります。この世論にあわてた国務省は、この取り組みはマッカーサーも事前に承知していたと12月30日に声明を発しますが、マッカーサーもこれを即座に否定する声明を発します。後に、ジョージ・アチソンはGHQの外交局長になり、マッカーサーの代理人として対日理事会の議長なども務めるようになりますが、この時点でのジョージ・アチソンの動きはマッカーサーの政治的立場を安定なものにするためには危険極まりないものだったでしょう。

 この時から、マッカーサーの闘いがはじまっていきます。日本国憲法の制定というのは、そのマッカーサーの政治闘争の中で展開された道具のひとつでした。近衛が次のような遺書をのこしています。

   僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難い事である。(中略=引用者)戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。其時初めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。

 遺書にある「増長」や「卑屈」「中傷」「誤解」の多くは、マッカーサーの周辺で発生したものであったといえるのではないでしょうか。一方で、戦後憲法の制定が間違いなくその歴史の最初期において日本側も当事者として積極的に動いていることを確認した時、近衛に憲法改正の役割を与えた木戸によるあの時点での内大臣府の廃止の意図についても、より丁寧に確認していく必要がありそうです。帝国議会での近衛への批判もまた、近衛を追い詰める動きであったことも確かです。

 いずれにしても、日本国憲法は「押しつけ」られたものだという印象の形成は、マッカーサーが「占領官としての闘い」を意識した瞬間以降、つまり近衛の自死以降に理由があるとみなすことはいかがでしょうか。敗戦直後の日本内部の政治闘争は、憲法改正を「押し付けられた」のではなく、「自ら放棄した」と評価すべきだと私は思うのです。